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教育・文化・スポーツ

梅津会館の変遷

 昭和初期の太田町

 太田町は古来より,茨城県北西部に位置する久慈郡の中心的な地でした。中世は佐竹氏が太田城を本拠とし,太田城の城下町として発展しました。近世は水戸藩内北部の物資の集散地として,そして問屋を中心とした商業の町として,藩内の重要な位置を占めていました。明治に入っても,交通の要衝であることから商業はさらに発展するとともに,久慈郡役所や警察署,郵便局などの官庁や金融機関も設置され,まさに県北の政治・経済の中心地として活況を呈していました。
 明治22年(1889)の市制・町村制の施行に先立つこと8年の明治14年(1881)9月3日に太田村を太田町と改め,町制を施行しました。
 昭和初頭までには,水戸―太田間,大甕―常北太田間の鉄道が開通し,水力発電により電気が点灯して水道の給水も開始されるなど,近代化が進められてきました。これらの背景には,私財をなげうってまでも近代化に尽力した前島由兵衛や竹内権兵衛,前島平,片岡倉吉といった先人たちと,それを支えていた太田の商人たちがいたことを忘れてはなりません。
 生活基盤の近代化が進む一方で,商業の中で大きな位置を占めていた葉煙草の取引が専売制になったことで,太田の商業には少しずつ変化が表れてきました。
 昭和7年(1932)12月,武藤常介が太田町長に就任しました。武藤は大門村の黒羽家に生まれ,茨城県師範学校(現茨城大学教育学部)を卒業し,太田尋常小学校(現 市立太田小学校)の訓導(教諭)を務め,25才の時に武藤家の養子に入り,ますと結婚し常介を襲名しました。その後訓導をやめて材木商を営んでいましたが,35才の時に太田町会議員に初当選して2期務め,42才の時に太田町長に当選し,以後3 期務めました。
 武藤が町長に就任した当時の太田町は,財政的にも厳しい時期で,明治29年(1896)建築の役場庁舎も県北の中心地というには名ばかりの老朽化が進んだみすぼらしい建物でした。武藤は町長に就任してすぐ,このような経済状況を,久昌寺や太田実科高等女学校(現 県立太田第二高等学校)の建築に既に多額の寄付をしていた函館の梅津福次郎へ報告していました。


福次郎の来訪
 昭和9年(1934)3月,函館はかつてない大火に見舞われ,太田町出身で函館で商売をしていた梅津福次郎は店舗を焼失してしまいました。実に4度目のことでした。その状況を知った太田町長武藤常介は,お見舞いとして桐の箪笥1 棹を函館市役所を通じて送りました。
 9月10日,お見舞いのお礼と先祖の墓参りのため太田を訪れた福次郎は,鮭の塩引を土産に太田町役場を訪れました。『梅津福次郎立志伝』には,福次郎は,まるで物置のような薄暗い部屋の中で,窮屈そうに仕事をしている姿に同情し,町長武藤常介らから説明を受け,即座に3万5千円の寄附を申し出たとあります。一方,武藤町長の遺稿「七十七年の回顧」(『武藤常介を偲ぶ』所収)では,その夜に若柳楼で開かれた宴席で,町に何か寄付をしたいが望むものはないかと問われ,町役場でも改築してくれればと申し出て即座に快諾され,翌日町議らの前で福次郎が正式に寄付の申し入れをしたと記されています。
 寄付の金額は,当時の新聞記事に「ポンと二万円」とあることから,最初は2万円の寄付でしたが,昭和10年(1935)1月,武藤町長が寄付のお礼に函館を訪れた際に,恥ずかしくないものを建ててくれと1万5千円の追加を申し出て3万5千円となりました。当時の新聞は「太田町ほくほく 梅津翁から役場建設費に一万五千円追加寄付」と報じています。
 また,町役場を訪れた翌々日,火災で焼失した若宮八幡宮の社務所再建のために3千円の寄付を申し出たのでした。
 福次郎はこれらの寄付をしたことで,昭和11年(1936)9月15日に紺綬褒章を賜っています。

『太田町役場を訪問』の画像

太田町役場を訪れた福次郎

 

太田町役場の建設

 福次郎からの寄付の申し出を受け,太田町は役場建築に向けて取り組むこととなりました。
 建築にあたっては,当時の敷地が狭いことから新たに土地を探し,西二町の小林彦衛門商店の土地について常磐銀行から取得できる見通しとなりました。ところが,役場があった東三の町会から,町内が寂れてしまうということで反対の声が上がりました。そこで,成田山真福寺の裏参道を元の役場敷地の南側に通すことで町会から了解を得るとともに,1,500円の寄付をも受けることができました。
 役場の所在の変更は早速太田町会に諮られ,昭和9年(1934)11月22日の町会で満場一致で可決となり,その日のうちに電報で福次郎に報告されました。そして,昭和10年(1935)2月5日付で茨城県に役場位置変更願が提出されました。
 新たな役場敷地は,太田町字西二西2186・2187番地で,周囲は銀行の多い地でした。面積は2筆で302坪,購入金額は土蔵2棟をあわせて5,130円で,昭和9年12月24日付で予算を追加し,翌年1月29日付で購入しました。
 一方で,庁舎建築にあたっての業者選定についても町会で話し合われました。その結果,4月6日に地元業者8名の指名競争入札が行われ,誉田村馬場の2代目山口子之松が1万9千500円で落札し,太田町内堀の飯島経應が保証人となりました。なお,父の初代山口子之松は,県立太田中学校(現県立太田第一高等学校)の講堂(国指定重要文化財)の建築を請け負っています。建物の設計は,水戸市田見小路(現 北見町付近)の小林工営所長の小林豊次,建築顧問は県土木課渡邊技師,監督は小林工営所員森田榮一と小菅清兩があたりました。
 起工式は昭和10年4月11日に行われました。福次郎は出席できませんでしたが,甥の志賀伊三郎が代理で出席し,町内各方面の有力者7,80人の参列のもとに行われ,この時の様子は,伊三郎の妻都恵子と武藤町長からの手紙で福次郎のもとに伝えられました。
 また,太田町では福次郎の役場建築のための寄付に報いようと,胸像制作の機運が盛り上がっていました。昭和9年11月15日付の武藤町長から福次郎への手紙で胸像の制作について触れており,翌年1月10日付の手紙には,太田町会全会一致で制作を可決されたことが記されています。制作は水戸の彫刻家森山朝光に依頼し,福次郎の写真をもとに型となる塑像を制作し,それに基づき銅像が作られました。森山朝光は後に日展会員にもなり,東久邇宮家から昭和19年(1944)に太田国民学校(現市立太田小学校)に下賜された徳川光圀木像(郷土資料館寄託)も制作しています。
 梅津家所蔵資料の中には,昭和10年9月16日に,福次郎が武藤町長らと朝光のアトリエを訪れた際に,制作中の塑像と共に撮影した写真と,塑像作成のために撮影されたと思われる,眼鏡をはずした福次郎を前後左右から撮影した写真が残されています。

『森山朝光のアトリエで』の画像     『胸像のモデル写真』の画像

森山朝光のアトリエを訪れた福次郎                    胸像のモデルとなった写真

 

太田町役場の竣工

 太田町役場の竣工は,昭和11年(1936)6月のことでした。4月9日付の武藤町長から福次郎への手紙には,5月15日の若宮八幡宮祭礼の際に竣工式を行いたいと記していましたが,17日付の手紙では,5月中に竣工の見通しであると記されています。最終的には6月中には竣工したとみられ,6月30日に開会した太田町会において,議員より中間報告を求められた議長(町長武藤常介)は,請負人が不慣れなため天候その他の原因も手伝って竣工が遅れ,請負人からの願いとしては不慣れなため損をしたから同情してくれと言っているが,損得は何とも致し難い,と答えています。
 この間,福次郎からの寄付金は5千円ずつ7回にわたって納入されました。
 8月1日付で,役場移転の告示がなされ,県にも報告されています。8月5日付の東京日日新聞茨城版では,福次郎の胸像が完成して据え付けられ,竣工式は秋に行われると報じています。
 竣工式は10月20日と21日の2日間にわたって行われることとなり,福次郎はこの式典に係る経費として3千円を別に寄付しています。
 10月20日は雨模様でしたが,午前9 時前に庁舎前での胸像の除幕式から始まり,11時から2階会議室で竣工式が開かれ,その後1階で立食での祝賀会が行われました。竣工式には福次郎のほかに安藤狂四郎茨城県知事など総勢600名の出席者を迎えていました。この時の福次郎について武藤町長は,「梅津氏は僕に向かって,君の為に僕も郷里に花が咲いた,と謙虚に僕に御礼を度々いはれた」と回顧しています。
 式典のほかにも余興としてレビュー,太神楽,仕掛け花火,動物のショーなどが予定され,街中いたるところにアーチが設けられていました。残念ながら雨のため余興はほとんどが延期または中止となりましたが,役場庁舎は夜間もイルミネーションで飾られ,不夜城の如くであったと新聞は報じていました。
 翌21日には自治功労者表彰や敬老会が行われ,こちらにも福次郎は参列していました。
 当時の新聞各紙の見出しを見ると,
 「県下に冠たる太田町役場竣工」(20日付 常総新聞)
 「新装なり太田町役場 けふ 喜びの竣工式」(20日付 東京日日新聞)
 「県下一を誇る太田役場の竣工祝賀会」(20日付 茨城日日新聞)
 「太田町役場新築 竣工式挙行 町内不夜城と化す」(21日付 常総新聞)
 「雨中沸返る盛況 太田新役場の竣工祝賀会」(21日付 いはらき)
と,素晴らしい庁舎の完成と太田町の祝賀気分を伝えています。

『梅津会館竣工絵はがき1』の画像 『梅津会館竣工絵はがき2』の画像

『梅津会館竣工絵はがき3』の画像  太田町役場竣工記念絵はがき

 

太田町役場の変遷

 昭和11年(1936)10月20・21日に竣工式典を終えた庁舎は,太田町役場として機能し始めました。当時の太田町は人口9,428人,世帯数1,877戸で,役場職員は町長・助役以下17名でした。
 第二次世界大戦中,塔屋には防空監視所が置かれ,兵士が監視にあたっており,当時のものと思われる「太田監視哨」という鉛筆書きの文字が室内壁2か所に残されています。戦後は,西三町に消防本部が設置されるまで,敷地の一角に消防団の機材置場が設置されるとともに,塔屋は火災の早期発見のための望楼の役割も果たしており,昭和40年頃までは,塔屋の上部に見張りのような施設が増築されていました。
 昭和29年(1954)7月15日,太田町は近隣6村と合併して常陸太田市として市制施行し,庁舎は町役場から市役所へと変わりました。翌年には新たに2村を加え,人口は43,298人,議員数も一時150人となったことから,太田中学校講堂に議場を移して議会を開いていました。昭和30年(1955)4月に議員が30人に減ったことから,以降は再度庁舎2階に議場を移しましたが,昭和36年(1961)に取得した通り向いの旧キリスト教会の建物に議場は移され,以後庁舎2階は会議室として利用されていました。また,職員も増えたことで庁舎も手狭になったことから,昭和31年(1956),付属家があった場所に鉄筋コンクリート造3階建ての新館が増築されました。
 昭和44年(1969)9月には,庁舎正面車寄せの真鍮製の市章が何者かに盗まれるという事件が発生したことを,当時の新聞が報じています。
 昭和40年代後半になると,事務量の増加と茨城国体に向けて職員数が増えていったことから,敷地内にはプレハブ棟が建てられ,教育委員会は内堀町の旧保健所に,水道課は東二町の給水塔敷地内に事務所を移していました。
 昭和53年(1978)に新たな市役所庁舎が完成し,7月21日から23日にかけて引越作業が行われました。24日から新庁舎で業務が開始されたことに伴い,建物は庁舎としての役目を終えました。
 その後は梅津会館と称されることとなり,1階は商工会などの事務所,2階は展示室に改修されて郷土資料館が設けられ,昭和55年(1980)に開館しました。背後の新館は中央公民館及び図書室となり,昭和59年(1984)には1階も展示室に改修されました。(昭和の改修工事)
 平成11年(1999)には市生涯学習センターの開館により,中央公民館機能が廃止となり,郷土資料館と新館会議室の貸館を行う建物となりました。
 平成23年(2011)3月11日に発生した東日本大震災では,常陸太田市は震度6 弱の揺れに見舞われました。梅津会館の展示室に来館者はいませんでしたが,新館1階と2階にいた約40 名の利用者は,全員無事に屋外へと避難することができました。停電・断水となったことから施設を閉鎖し,被害状況を確認したところ,新館との接続部分が損傷したほか,建物の周りでは胸像の台座にずれが生じ,外構に沈下が見られました。展示室内では埴輪1点が転倒したほかは,展示資料や収蔵資料に大きな被害はありませんでした。
 郷土資料館は,ライフラインの復旧と市民生活が落ち着くまで休館とし,4月1日から1階展示室のみで再開し,2階展示室は他の施設等が所蔵する文化財を一時保管していたことから,再開は7月1日からとなりました。

『梅津会館太田監視哨』の画像     『梅津会館での市議会』の画像

塔屋に残る「太田監視哨」の文字                       2階会議室で常陸太田市議会(昭和31年頃)

『梅津会館前での炬火リレー』の画像     『資料館への改修工事S58』の画像

梅津会館前での国体の炬火リレー(昭和49年)     昭和の改修工事前の1階カウンター(昭和58年)

『梅津会館改修前1階展示室』の画像     『梅津会館改修前2階会議室』の画像

昭和の改修工事後の展示室(左  1階,右  2階)


修復再生工事(平成の改修)

 平成11年(1999)8月23日付で梅津会館は国登録有形文化財となりました。
 土蔵や町家といった古い建物が密度高く残る鯨ヶ丘地区について,常陸太田市教育委員会は平成19年(2007)より,筑波大学に委託して歴史的建造物調査事業を開始し,同大大学院藤川昌樹研究室が中心となって,建築後50 年を経過した建物の悉皆調査とその中から価値があると判断した建物の詳細調査を実施しました。梅津会館もその一環で平成22年度まで詳細調査を行った結果,それまで常陸太田市民にはあまりにも身近な存在であるがゆえにあまり注目されなかった梅津会館が,建築的にとても価値があることが判明しました。さらには函館調査を通して,梅津家が設計図面をはじめ,当時の太田町長からの書簡,当時の新聞や写真などを所蔵していることが確認され,それらを梅津家のご厚意により寄贈していただくこととなりました。
 一方で,公共施設の耐震化を進めるなか,梅津会館も平成21年(2009)に耐震診断を含めた総合劣化調査を実施しました。調査の結果,建物自体には非常に良質のコンクリートが使われており,不同沈下や建物の傾きは見られなかったものの,コンクリートの中性化が見られ,耐震診断では梁間方向に強度不足が確認されました。雨漏りについては,外壁タイルが旧式のだんご張りであったことに起因する問題はありましたが,昭和50年代に取り換えられたアルミサッシの枠周囲から内部に雨水が入り込んでいることが大きな影響を与えていることが判明しました。
 耐震補強工事の必要性が出てきたことから,平成23年(2011)から文化庁の補助事業として新たに設けられた「文化遺産を活かした観光振興・地域活性化事業(現 文化遺産を活かした地域活性化事業)」に申請し,耐震補強と活用のための整備事業について補助金の交付決定を受け,3 か年計画で,保存活用計画を策定し,整備工事を行うこととなりました。
 保存活用計画の策定にあたっては,建築の専門家2名と各分野の市民の代表8名による「梅津会館保存活用計画策定委員会」を組織し,4回の会議を行って計画を策定しました。
 保存活用の基本方針は「原点から創る保存と活用」とし,常陸太田の近代化に大きな役割を果たした梅津会館が,多くの人々に愛され活用されていく施設となるよう,原点に戻ってその魅力を引き出し,必要な整備を行いながら,復原・活用・管理の面から計画を策定しました。
 この計画に一部修正を加え,平成25年に改修の実施設計を行い,平成26年3月に耐震補強工事・修復再生工事・増築工事からなる改修工事に着手しました。
 耐震補強工事は,総合劣化調査で指摘された耐震強度不足を補うために,当初は1階2か所,2階1か所に鉄骨ブレースでの補強を計画しましたが,2階の大空間を生かすために構造計算を見直し,最終的に1階に2か所の構造補強を行いました。
 修復再生工事は,梅津会館の建物としての本来の魅力を引き出すために,竣工当初の姿に復原することとしました。郷土資料館への改修時に設置されたガラス展示ケースをすべて撤去し,1階にはカウンターを復原して役場事務室の時代に戻し,2階は隠れていた議壇を表に出して会議室としての大空間を復原しました。また,経年劣化した壁面の補修や防水処理,そしてアルミサッシからの漏水を止めるために止水板を入れるなどの工事も行いました。
 増築工事は,展示ケースを撤去したことによる展示室と,新館解体に伴い無くなったトイレを設置したもので,解体した新館の跡地に鉄骨造2階建て延べ床面積220平方メートルの建物を建築し,展示室とトイレがある2階部分が梅津会館の1階と連絡しています。

 

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最終更新日最終更新日 2016年5月25日 ページの先頭に戻るページの先頭に戻る
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