1. ホーム>
  2. 教育・文化・スポーツ>
  3. 常陸太田市教育委員会>
  4. 文化・芸術>
  5. 文化財>
  6. 梅津会館>
  7. 梅津福次郎の生涯
LINEで送る

教育・文化・スポーツ

梅津福次郎の生涯

出生から函館へ

  福次郎は安政5年(1858)2月4日に太田村下井戸に梅津(須)友次郎の二男として生まれました。負けず嫌いで意地が強く,人よりも常に一歩前を進んでいなければならないような性格でした。
  明治3年(1870),13歳の春に太田村の隣の誉田村の菊池家に奉公に出ました。菊池家は醸造業を営みながら農業も大きくやっており,ここでの約10年間の生活がのちの商売に大きな影響を与えたとされています。
  23才になった明治13年(1880)9月,「何時までも太田あたりでぐずぐずしていても仕方がない,体の続く限り奮闘してみよう」と,当時開港間もない北海道の根室があまりにも好況であることを聞き,北海道に渡るべく,新婚間もないヤエ夫人とともに太田を旅立ちました。
  東京の新橋からは,開通したばかりの汽車に乗って横浜まで行き,根室に向かう船を探しましたが,残念ながら根室行きが無いため函館に向かう郵便三菱会社の住ノ江丸という500トンほどの汽船に乗り,函館に向かいました。
  しかし,出航後間もなく時化にあい,3昼夜船内で飲まず食わずの時を過ごし,やっとの思いで函館に着きました。
  疲れ果てた2人は,キト旅館という宿に着いて昼食をとりました。昼食は秋烏賊の丸煮が付いたあっさりしたものであったことから,一人あたり5・6銭程度と思っていたところ,20銭といわれ自分の耳を疑いましたが,その一方でこれは景気がよい証拠だと感じました。
  函館の街は,街路に面して旅館,商店,銀行などが軒を並べ,人馬の往来も多く,港には大型の汽船や帆船が停泊していました。そのような光景を見て,根室に向かうのではなく函館で頑張ってみようという気になり,西川町に2人で1泊30銭の宿に落ち着きました。その後,たまたま太田出身の政吉という人力車夫と知り合い,政吉の家に同居させてもらいながら,納豆売りの商売を始めました。
  納豆売りをしながら,家賃2円40銭の借家を見つけ,後に魚の行商に変えて,天秤棒を担いで商売に励みました。函館の地理にも明るくなっていったことから,近郊にまで足を延ばして魚を売り,売り切ると近郊から野菜を仕入れて市中に戻ってそれを販売しました。また,荒天の日は他の商人が出渋るため,普段より売り上げも多く,得意客獲得の好機でもありました。
 このようにして,福次郎は1日に人の2倍も3倍もの仕事をすることで,顧客の開拓と客からの信用を着々と築きあげていきました。一方で,ヤエ夫人も夜市に果物や野菜の露店を出して家計を助け,2人の商売は順調に進んでいきました。明治16年(1883),小さな店舗のある借家に移り,ヤエ夫人は雑貨食料品類の販売を始め,福次郎は行商にいそしむのでした。
  あるとき,近くにできた酒の小売店が非常な賑わいを見せていることに目を付けた福次郎は,資金回収の早い酒店への転業を決意し,明治17年(1884),その酒の小売店の一軒隣の貸店舗に移り,酒店を始めました。
  ヤエ夫人は店で,福次郎は行商で,一日として休むことなく酒の販売を続け,ついには醸造元との間に特約を結んで良い品を安い価格で売ることに成功し,顧客の増と信用をますます得ていくのでした。明治19年(1886)には店舗を移転して行商をやめ,「梅津」の看板を掲げて,酒類のほか食料品・雑貨まで扱うこととなりました。
  明治23年(1890),村田駒吉という商人が末広町の角地を貸し出すという話がありました。しかし,月54円(『梅津福次郎立志伝』では72円)という高額のため,なかなか借り手は現れず,しばらく空家となっていました。福次郎は商売をするうえでは地の利が大切だと考え,高額ではあったものの借りることとしましたが,周囲の人々に,「あんな大きな店を借りて,梅津という男は正気なのか」と言われていました。
 そのような言葉に負けないように,福次郎はますます商売に励み,営業品目は和洋酒・食料品・缶詰・味噌・醤油・雑貨そして煙草にまで及んでいきました。
 そして,明治41年(1908)には函館区会議員(1級)に当選し,1期6年間を務めました。当時の区会議員は納税額によって1級から3級に分かれており,投票者は3級が524人に対し,納税額の多い1級はわずか23人しかいませんでした。その後,函館商業会議所議員を3期務めるなど,市民を代表する立場になるまで商売の実績を積み,明治44年(1911)の納税者番付では函館で12位,大正13年(1924)になると函館で3位,北海道でも18位というように,地元の名士となっていきました。
 明治44年の皇太子殿下(後の大正天皇)の行啓に際しては,前年に竣工した函館区公会堂(国指定重要文化財)に区会議員という立場で参列しました。
 大正2年(1913),新婚間もなく一緒に北海道に渡り,長きにわたって福次郎を支えてきたヤエ夫人が元町の別邸で亡くなりました。
 その年の10月,かねてから取引上懇意にしていた大日本麦酒株式会社の重役植村澄三郎の仲介により,山口県士族高井尚三の次女タケ子と再婚しました。タケ子は家事を一手に引き受け,福次郎と梅津商店を支えていくのでした。

 『若き日の福次郎』の画像   『天皇陛下行幸時』の画像   『タケ子夫人と』の画像

若き日の福次郎                                     天皇陛下行幸時                            タケ子夫人と

 

大火と梅津商店の変遷
  度重なる大火に見舞われた函館では,復興を重ねながら都市機能が整備されていきました。福次郎は明治21年(1888),明治40年(1907),大正10年(1921),昭和9年(1934)の大火で店舗を4度焼失しながらも,その都度いち早く再建し商売を続けたのでした。
  現存する建物を含め,それぞれ構造が異なる店舗3代の写真が残されています。もっとも古い写真は和風の2階建ての堂々とした町家型店舗です。次は大正10年の大火後に建てられた木骨鉄筋コンクリート造の2階建ての洋風の建物で,当時の流行を取り入れ,角の部分を丸めてショーウィンドウを設けています。
   しかし,コンクリート造ではあったものの昭和9年3月21日に発生した大火で焼失してしまいました。この時の大火は住吉町の民家から出火し,強風にあおられて12時間近く延焼し,焼失面積は4,164平方キロメートル,焼失建物11,105棟,死者2,166人で,被災総額は当時の金額で約1億2,400万円と,函館の大火の中で最も被害が大きいものでした。福次郎は店員の佐八郎が引く大八車に乗せられて湯の川方面に逃れ,かろうじて亀田川を超えることができ,命拾いをしたと伝えられています。
  現在残る建物は,青森から連れてきた45人の大工によって焼失前の外観とほぼ同じように木造モルタル塗で造られ,大火の翌年には早くも完成して商売を再開しました。
  この地は,十字街電停のすぐ脇で,西に函館山を望み,丸井今井百貨店(現 函館市地域交流まちづくりセンター),日魯漁業函館支店(現 ニチロビルディング)といった昭和初期の建物も残っています。元町や赤レンガ倉庫といった観光地にも近く,多くの観光客が行き交う場所です。
  平成25年(2013)よりギャラリーに姿をかえましたが,今も当時の威容を誇る建物です。

 『2代目梅津商店』の画像     『3代目梅津商店』の画像

2代目の梅津商店(大正10年焼失)                     3代目の梅津商店(昭和9年焼失)

『4代目梅津商店』の画像    『現在の梅津商店』の画像

4代目の梅津商店                                           現在の梅津商店(奥は函館山)


晩年の福次郎
  戦争へと向かう時代の流れの中で,営業方針の切り替えを断行し,商圏を縮小して合名会社組織に改めました。
  太田町役場建築など多方面に寄付をした福次郎の最大の寄付は,函館市立中学校建設でした。昭和初期の函館には,道立中学校が1校しかなく,進学したくてもできない若者が大勢いました。市立中学校開校を公約として昭和13年(1938)に市長となった斉藤与一郎は,本校舎の土地と建物の目途がないままに,昭和15年(1940)に仮校舎を建てて中学校を開校しました。
  翌年,熱海で療養中であった福次郎のもとを訪れた斉藤市長に対し,これまでの商売の恩返しに函館市に何らかの寄付をしたと福次郎が申し出,約3万坪に及ぶ広大な土地と建物の購入と校舎建築費用として,65万円の寄付をすることになり,昭和18年(1943)に五稜郭に隣接する柳町の現在地に校舎が完成しました。
  2人の夫人の間に実の子がいなかった福次郎は,昭和16年(1941)5月に,昭和9年の大火で福次郎を大八車に乗せて避難させた店員の佐八郎とその夫人淑子と養子縁組をし,佐八郎はのちに2代目梅津福次郎を襲名し,跡を継ぐこととなりました。
  40歳の頃に盲腸になって以降は健康に気をつけ,朝は2合の牛乳,昼と夜は飯を2杯という食事を続け,好きだったタバコも健康のためにやめました。80才を過ぎても元気でしたが,83歳の昭和15年に肺炎を患い生死の境をさまよって以来は,体力の衰えが徐々に目立ち,熱海や湯の川温泉で湯治をして過ごす日々が続いていました。湯治のために昭和17年(1942)6月8日函館を出発し,10日青森の大鰐温泉に到着して温泉に入りましたが,20日から昏睡状態に陥り,23日に85歳の生涯を閉じました。
  福次郎の遺体が25日に函館に戻った際には,函館港の桟橋に市立函館中学校の生徒が整列して出迎え,27日に菩提寺である実行寺において,斉藤与一郎前函館市長を葬儀委員長にして葬儀が行われました。法名は大通院殿法光日福大居士。同寺内の梅津家墓所に埋葬されました。

『晩年の福次郎』の画像     『晩年の福次郎夫妻』の画像

晩年の福次郎                               最晩年の福次郎夫妻

問い合わせ先

このページに関するお問い合わせは文化課です。

〒313-0055 常陸太田市西二町2200(旧法務局)

電話番号:0294-72-3201 ファックス番号:0294-72-3310

メールでのお問い合わせはこちら

アンケート

常陸太田市ホームページをより良いサイトにするために、皆さまのご意見・ご感想をお聞かせください。
なお、この欄からのご意見・ご感想には返信できませんのでご了承ください。

Q.このページはお役に立ちましたか?
最終更新日最終更新日 2016年1月29日 ページの先頭に戻るページの先頭に戻る
常陸太田市役所 〒313-8611 茨城県常陸太田市金井町3690 TEL 0294-72-3111(代表)
スマートフォン用ページで見る