住所:常陸太田市東染町1316-1(東染林業センター)※クリックすると地図を表示します
【写真:東染郷倉(市指定)】
東染町には、江戸時代初めからの東染地区に関する文書が多数伝えられています。その数は、平成23年度に、茨城県立歴史館の地域共同史料調査によって、1,756件1,875点に及ぶことが分かりました。そのすべてが、平成29年5月25日に「東染文書」として市の指定文化財となっています。これらの文書は、市指定文化財の「東染郷倉」の中に収められ、毎年地元の人たちによって虫干しが行われてきました。
郷倉とは江戸時代に年貢米貯蓄のために設置された公共の倉庫のことで、通常各村におかれました。江戸時代初期は年貢米保管が主でしたが、中期以降、特に天明・天保の飢餓後は非常時の救済用として米・麦・雑穀などを蓄えて飢餓などに対応しました。ほとんどの郷倉が明治以降取り壊されており、市内で当時の姿のまま残されているのは東染だけとなっています。
東染郷倉に保管されてきた文書の中で最も古いのは「寛永拾八年 常陸国久慈郡東染村御縄打帳」(3冊)です。縄打帳は検地帳の別名で、江戸時代初めの寛永18年(1641)に水戸藩で行われた検地での一筆ごとの面積、田や畑など種別と位付、耕作人が記載されています。検地は大々的な事業であり何度も簡単にできないことから、表紙には保護のため柿渋が塗られています。また、冊子の角は擦れて丸くなっていることから、この縄打帳がいかに大事な文書であったかをうかがい知ることができます。水戸藩で次に大々的に検地が行われたのは約200年後の天保期で、その際の検地帳「天保十三年常陸国久慈郡東染村御検地帳」も4冊すべてが残っています。
このほかに注目される資料は、延宝2年(1674)から明治3年(1870)まで、197年分が連続して残されている年貢割付帳です。「東染村□御年貢可納取附之事」(□にはその年の干支が入る)と題された郡役所からの書状で、その年に東染村が納めなければならない年貢の量が記されています。この文書により、東染の総石高は天保の検地帳が出る天保13年(1842)までは、647~648石で、天保14年以降は441~442石となったことがわかります。
年貢割付状(東染村□御年貢可納取附之事)で東染村に割当てられた年貢量を、庄屋の名前で村人に対し、その家が納める年貢の量を割り当てた文書です。今でいうと税金の課税台帳といったところでしょうか。
「指銭」とは、村の運営のために用いられる費用のことを言います。今でいえば東染の生活費といったところでしょうか。水戸藩では「指銭」や「指割」という言葉が用いられますが、他の藩では「入用」と呼ばれています。指銭割立帳は、村の費用をまかなうために、各村人からどれだけ徴収するかが記されています。前の年貢が県民税であるなら、こちらは市民税といっていいでしょう。萬指銭帳は、村の1年間の収支を記したもので、まさに村の「家計簿」です。
人別改とは、現在の国勢調査のようなもので、領内の戸数、人口、牛馬数などの調査のことです。その成果をまとめたものが人別改(元)帳で、住民基本台帳のようなものといっていいでしょう。寺社人別改帳は、江戸幕府のキリスト教禁止令などの宗教政策の一環で作成されたもので、氏名などとともに檀家となっている寺院等の名称が記されていました。東染にはどちらも文化元年(1804)のものが残されています。
明治時代前半に作成されたものと思われます。大きな絵図のほかに、それを作成するために作られた約200枚に及ぶ字ごとの絵図もあります。
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