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魅力

黄門さま

江川武村画   西山荘

江川武村画 寛永5年(1628年)-元禄13年(1700年)

  西山荘  (財)水府明徳会 提供

 江戸時代前期の水戸藩主です。勧農政策,寺社整理を中心とした宗教政策などによって水戸藩政を確立し,「大日本史」編さん事業にも着手して名君の評判を取ったことから,後に「水戸黄門漫遊記」となる伝説を生じました。隠居後は,常陸太田市にある西山荘に住みました。

 

諸国漫遊はしなかった黄門さま 助さんの墓は正宗寺に・・・

 水戸藩第2代藩主徳川光圀公は,いまも水戸黄門と呼ばれ,テレビドラマなどで広く親しまれております。光圀公は名君として知られていましたが,それに加えて,明治の講釈師玉田玉知が,助さん,格さんを連れて諸国漫遊する庶民の味方の水戸黄門に仕立てたのだから,黄門人気は増すばかりでした。

 しかし,実際には黄門さまは諸国漫遊の旅はしていません。ただ,西山荘に近い久昌寺に,諸国を巡歴する虚無僧や山伏が泊まった時,光圀公は好んで彼らが見聞きした情報を聞いたという事実はあったようです。

 黄門さまが最も長旅をしたのは,まだ隠居をする前に,神奈川の藤沢から江ノ島,日光,勿来関,八溝山,銚子,勝山などを歩いたという記録があり,また,隠居後の元禄8年(1695年),江戸から房州の市川,中山,成田などを経て水戸城に入ったということもありました。

 諸国漫遊する黄門さまのお供は助さん,格さんですが,この2人のモデルはあったようで,助さんは佐々宗淳,格さんは安積覚といい,ともに彰考館の総裁をつとめた学者だったのです。助さんの墓は,常陸太田市の正宗寺にあり,墓碑の撰文は格さんが書いています。

 

御座の間と次の間の境に敷居がない上下の隔てを取り払った黄門さま

 水戸黄門が隠居した西山荘は質素な平屋建てで,73歳で他界するまで10年間ここに住んでいました。ここで家臣たちと「大日本史」を編さんしたり,時には百姓町人と親しく話をしたといわれています。

 西山荘の薄暗い玄関は6畳敷。入口は間口1間で,1枚の雨戸を片側に残して障子は1枚,7室あるどの部屋も荒壁の粗末なもので,華美なところはどこにも見当りません。そして,9畳の御座の間と10畳の次の間の境には敷居がないのです。これは上下の隔てをつくらないで,領民,百姓町人と親しく膝を交えて話ができるようにという黄門さまの配慮だったといいます。いかにも庶民派黄門さまらしいお話です。

 

「庄屋として百姓の世話をよろしく」 領民の善行をよく表彰した黄門さま

 黄門さまは領民の善行に対してよく表彰しました。領民の生活に張りを持たせようとしたのでしょう。

 ある時,太田の馬場御殿に,黄門さまからほうびをもらう人々が集まっていました。黄門さまは,一番最初に新宿村の庄屋根本利兵衛を呼び,「顔を上げよ」といいましたが,利兵衛はかしこまって顔を伏せたままでいました。黄門さまのそばにひかえていた侍も「殿がそちの顔をおぼえておきたいと申されておる。かまわないから顔を上げなさい」といったので,利兵衛が恐る恐る顔を上げると,黄門さまは「庄屋として百姓をよろしく。新百姓も数多く取り立て,荒地を拓いたことはまことにけっこう」と利兵衛を賞め,青銅1貫文を与えたといいます。

 これは根本利兵衛の手控「御成御用留」に記されていることですが,簡単な話ながら領民に接する黄門さまの姿が想像できます。

 

中国明代末期の儒学者を招き,教学を盛んにしました

 戦国動乱の時代が終わり江戸幕府体制の確立期に水戸藩主となった光圀公は,文教中心の政治理念をかかげて藩政の基礎固めに懸命に取り組みました。光圀公が朱舜水を招いたのは,儒教の本場中国から,直接その本領を学びたいと考えたからです。

 中国人朱舜水は,儒教思想,儒式礼法などの学者としての学究的な一面だけでなく,田畑の耕作,家屋の建て方,医学,料理,裁縫,機織りなどの中国の学問を大いに奨励,水戸藩の教学を盛んにしました。

 

光圀公の略年表

寛永5年(1628年) 水戸城下で生まれる

寛永10年(1633年) 水戸徳川家の世子に決まる

寛永13年(1636年) 元服し,光国と名乗る

承応3年(1654年) 前関白近衛信尋息女尋子(泰姫)と結婚

明暦3年(1657年) 駒込藩邸内に史局を開く

寛文元年(1661年) 父頼房没し,第二代藩主となる

寛文12年(1672年) 史局を小石川に移し,彰考館と名づける

延宝4年(1676年) 大日本史編纂の史料調査を開始

延宝5年(1677年) 稲木村久昌寺を新築

延宝7年(1679年) このころ光国を光圀に改める

元禄3年(1690年) 藩主の座を綱條に譲る

元禄4年(1691年) 西山荘に隠居する

元禄11年(1698年) 水戸城内にも彰考館を開始

元禄13年(1700年) 西山荘で没す(73歳)・瑞竜山に永眠

 

水戸徳川氏略系図

 平成10年に放送されたNHK大河ドラマ第15代将軍「徳川慶喜公」は,水戸徳川家の生まれで,慶喜公の実父は,「太田落雁」や「山寺の晩鐘」などで当市にもゆかりのある第9代水戸藩主「徳川斉昭公」です。当市には,水戸徳川家歴代の墓所(瑞竜山)があり,樹木に覆われたなかに,光圀公,斉昭公など水戸藩主の墓が点在しています。

 

家計図

 

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