村の暮らしが育んできた
常陸太田市の金砂郷地区赤土町は、かつては赤土村と呼ばれていました。
赤土村は、水戸藩の煙草生産の発祥地で、水府煙草として知られていました。
文化年間(1804年〜17年)の記録によると、金砂郷では山芋、インゲン豆、サトイモ、早稲陸稲(畑に植える稲)、綿花、大豆、小豆、ナス、ゴマ、エゴマ、黒豆、ササゲ、粟、稗、ダイコン、菜種、大麦、裸麦など、さまざまなものが栽培されています。
なかでも村の生計を支える主要な作物が煙草でした。そして煙草を中心とした主要作物の一年の栽培体系が作られていました。
煙草は4月中旬に植え、7月下旬に収穫します。そのあとにそばの種がまかれ、10月中旬にそばの収穫となります。11月から小麦の種がまかれて、翌年6月に収穫となります。
この年は、小麦の収穫後に大豆がまかれ、10月に大豆の収穫となります。そのため、煙草とそばは別の畑で栽培されます。
これはいつも畑を生き生きさせておく農家の知恵なのです。
このように、季節に合わせての作物が栽培されてきました。
そばは、煙草の収穫が終わり、小麦の種まきが行われるまでのおよそ3ヵ月の間に種まきから収穫までを行います。
常陸秋そばの種が選ばれたときに、重要な基準のひとつとなったのが、この期間にぴったりと合う条件の品種であることだったといいます。
主要作物で換金の対象となり、農家の生計の中心となったのは煙草でした。
そして毎日の主食としていたのが、夏場では麦から作ったうどんや麦飯、そして冬場のそばだったのです。

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- 2024年09月01日
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