「常陸秋そば」発祥の地
そばの主産県として,数々の産地を上げることができるが,農林水産統計《平成19年産》によると,茨城県のそばの作付面積は第6位であるが,収穫量は北海道に次ぐ第2位となっており,日本の蕎麦消費を支える一大産地となっています。この茨城県で作られているそばの品種のほとんどが「常陸秋そば」です。茨城県の奨励品種である「常陸秋そば」は,昭和53年に茨城県久慈郡金砂郷村(現常陸太田市)の在来種から選抜育成された品種で,千粒重(無造作に選んだ子実千粒の重量)がやや重く,粒揃いが良く,しかも品質が良いことから,昭和60年に県の奨励品種として採用されました。
そば作りに適した風土と環境
市内赤土町は,地名通り赤い土壌で,山あいの傾斜地にそば畑が広がっています。山間部で昼夜の気温差の大きい,霧の立ち込める地形が味のよいそばを育てるといいます。この赤土町を中心とした地域は,まさにそのような土地です。また,この地域では,水田が少なく,米の代用食として昔から葉タバコの後作にそばを作っていました。そばは,台風や大雨の影響を受けやすく,計算どおりにいかない作物です。その中でも,特に畑の水はけが重要で,小石の混じった赤土町を中心とした地域は,水はけがよくそば作りに適しています。
タバコがこの地域の特産品であったことも大きな土台になっています。タバコや大豆を同じ畑で連作すると連作障害が生じます。タバコの後作にそばを作ることでこの障害を取り除き,タバコの残肥をよく吸収します。このように何年も何十年も繰り返し行われてきたことが,そばに力強い畑となっています。
品種の管理
そばの栽培では,種の管理も忘れてはならない重要な点です。そばは虫媒花で,他の品種と交雑しやすいことや,花が咲いた後に実が付くのは約2割以下で,茎が細く実も落ちやすいため,収穫量が少ない作物です。植物であるそばは,世代を重ねるにつれてその種の特性が弱まってしまうため,管理された種を使うか,種用として別に栽培するなどの種の管理が必要です。
この「常陸秋そば」種子の採種が,市内赤土町(土が赤いことから赤土地区と呼ばれる)を中心に,その近隣の下宮河内町,上利員町などで行われており,H19年は16ヘクタールで12,083kgの種子生産が行われています。これは,県農業総合センター農業研究所で原々種を生産し,県穀物改良協会で原種を生産,その原種から常陸太田市内の採種農家が種子を生産し,一般の栽培農家に販売されるようになります。つまり,最初の原々種生産から一般の農家に供給されるまで3年かかります。各段階で,品種特性と異なる株(異株)を徹底的に除去して,品質を保ちつつ,量を増やしていきます。
常陸太田市は「常陸秋そば」の種子を大事に守っている産地であり,この地域で採種された種子が現在県内各地に作付けされています。この「常陸秋そば」は,異形粒がなく粒揃や品質も良く,特にそば特有の香り,風味,甘みがあります。
水府タバコとそば
常陸太田市のそばの歴史をたどっていくと,江戸時代から代表する特産品に「水府タバコ」があります。今から400年前,1608年(慶長13年)に現赤土町で試作が始まったといわれ,徳川光圀公に献上,高い評価を得た後,藩の保護奨励もあり,赤土,上利員,中利員,東連地,天下野,小里,町屋などの地域は,タバコの名産地として知られるようになりました。明治40年に水府タバコは皇室御料用に指定され,赤土の模範農家28人が納入したのが始まりで,昭和20年まで続きます。水府タバコは地域住民の経済を支える主要農産物であったことから,旧水府村の村名理由の一つとされました。
水戸黄門とそば
徳川光圀公は大の麺好きで,うどんやそばを自ら打ったといわれ,日本で一番最初にラーメンを食べた人物としても有名です。また,西山荘に居を構えた光圀公が好んで「そばきり」を食したことが,『日乗上人日記』に記されています。
水戸藩のそばは,光圀公の命令で信州から種を移入したのが発祥といわれています。最初に種を植えた場所は,西茨城郡川根村(現笠間市)。常陸太田地方で,特産品の「水府タバコ」栽培を奨励,その後作としてそばを普及させました。
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- 2023年9月7日
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