常陸太田 米の話
米の育つ環境
茨城県の北部,水戸から北へR349号を20キロほど行くと常陸太田市にはいります。市北部は阿武隈山系の一部となり豊かな稜線を望むことができ,南部には開かれた水田地帯が広がっています。
また,市総面積の65%を占める森林から湧き出す水が,市北部の山林から南部へいくつもの川となり,里川・山田川・源氏川・浅川,茂宮川などの清流となり,すべての川が久慈川へと注ぐ自然豊な地域であり,これらの水を利用した米づくりが盛んにおこなわれています。その昔においては,川の氾濫が起こりやすい地域でもありましたが,川の氾濫のたびに上流から流れてきた肥沃な土砂が堆積し,その地域で行われる農業に大きな恵みをもたらしてくれました。これらの自然の恵みを守っていくとともに「自然と共に生きる」農業を継続していて,これらの河川により,山林から流れ出すミネラルを多く含んだ清流を利用して良質な米づくりを行っています。
常陸太田市の米にまつわる民族文化と歴史
米は,食べ物としてばかりではなく,私たち日本人の慣習や儀礼の中に,今日でも深くかかわりをもっています。日本各地での夏祭りや秋祭りは,田の神に豊作を祈ったり,感謝することに由来しているといわれています。田楽(でんがく)などの芸能も田植えのときのおはやしや歌が始まりだといわれています。
当市には,西金砂神社と東金砂神社に伝わる金砂田楽という田楽舞があり,国選択無形民族文化財・県指定無形民俗文化財に指定されています。その起源は平安時代に遡り,72年毎に大祭礼が執行されます。西金砂神社では6年毎の小祭礼,東金砂神社では毎年の嵐除祭が奉納され,五穀豊穣などを祈る民俗芸能が行われます。
また当市は,浅川・山田川・里川といった清流が流れる良質米の産地として知られ,古くは徳川家への献上米が生産されていたとも言われています。市内には,水戸藩2代藩主徳川光圀公が1691年から1700年に没するまでの晩年を過ごした隠居所である「西山荘」があり,その付近には「ご前田」と呼ばれる,光圀公が一領民となられた証として,太田奉行所に年貢米を納めるため自ら耕した水田(約五十平方メートル)の一部が存在し,今日では「お田植え祭」が行われ毎年お米が作られています。
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- 2009年7月10日
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