西光寺は、真言宗豊山派の寺院でしたが、明治時代に無住となってしまい、現在にいたります。大正12年の火災により、現存する仁王門を残し、本堂や薬師堂などの主要な建物は焼失してしまいました。薬師如来坐像と仁王像はその際、周辺の方々によって運び出されましたが、薬師如来坐像は光背の一部が焼損してしまい、仁王像も手首が焼損したと言われています。
国指定重要文化財(明治44年8月9日指定)
像高は143.7センチメートル(台座を含むと290.7センチメートル)で九重の蓮華座上に座し、背後には飛天のつく光背を持っています。平安時代後期の作で、定朝様式の仏像として県内では貴重な存在です。
カヤ材の一木割矧造りであるとされています。光背は2つの円が重なった二重円光で、中央最上部に大日如来を配置し、左に6躯、右に5躯の飛天を配しています。
平成17・18年度の2年間、奈良国立博物館内にある(財)美術院国宝修理所で、表面の剥落止めや、大正12年(1923)の火災で運び出された際に誤って配置された光背の飛天を元に戻すなどの修理を実施しました。
東日本大震災でも、光背に亀裂が入るなどの被害を受けたため、再度、(財)美術院国宝修理所で修復作業を行い、平成26年6月に完了しました。
県指定文化財(昭和46年1月28日指定)
阿形像(右)は像高236.0センチメートル、重さ230キログラム、吽形像(左)は像高231.2センチメートル、重さ246キログラムです。阿形像はケヤキ材、吽形像はカツラ材の一木造で室町時代の後半の作とされています。
昭和初期の修理で施された釘や鎹(かすがい)が錆び、台座が小さいため自立できなかったので、平成17・18年度の2年間、山形県山形市にある東北芸術工科大学文化財保存修復研究センターで、解体修理を行いました。その際、享保2年(1717)の銘がある修理札と般若心経の経巻が見つかっています。
定朝は平安時代後期に活躍した仏師で、それまでの中国からの影響を受けた仏像から、日本独自の様式の仏像を確立しました。浅く平行に彫られた衣の文様や瞑想的な表情が特徴で、当時の平安貴族に受け入れられました。多くの仏像を作ったと伝えられていますが、現存するのは京都府の宇治平等院本尊の阿弥陀如来坐像(国宝)だけとされています。定朝の作風は以後の仏像に広く浸透し、定朝様として広まりました。
この機会にぜひともご覧ください。
【文化財解説(下利員町西光寺)】みんなで守った地元のお宝を紹介します!
下利員町西光寺は現在廃寺となっていますが、火災から本尊を助け出したり、仁王像にまつわる言い伝えがあったりなど、地元のみなさんからとても愛されています。そんな西光寺の文化財をご紹介します!
撮影:常陸太田ビデオ研究会 / 協力:茨城大学人文社会科学部歴史・考古学メジャー
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