常陸太田市の旧市街地に位置する標高38m前後の馬の背状台地は、鯨のように見えることから「鯨ヶ丘」と呼ばれています。いつ名付けられたかはっきりと分かっていませんが、明治34年発行の『太田勝景誌』に「鯨岡とも云しなり(是は鯨の形しをる処より出しか)」と書かれていることから、明治時代には呼ばれていたことが確認できます。
奈良時代に編さんされた『常陸国風土記』※に、景行天皇の時代(4世紀)、日本武尊が東夷征伐のためこの地を巡った際、丘の起伏があたかも鯨が洋上に浮上したように見えるため、「久慈」と名付けたとあり、「鯨ヶ丘」の名称はここに由来するとの説もあります。
※『常陸国風土記』には「郡より南に近く小さき丘有り。体鯨鯢に似れり」とあり、鯨に似た丘は郡家(郡の役所/現市内大里町付近)から南の方角にある古墳を指しているとも言われています。
平安時代末、藤原道延が鯨ヶ丘の台地上に太田城を築き、その後佐竹氏3代隆義が太田城に入ると、太田城は天正19年(1591)に水戸に本拠を移すまで400年以上佐竹氏の居城となりました。
鎌倉時代には、日立市の水木浜や河原子海岸付近で生産された塩を太田城下まで運んでいたと言われています。塩を運んだ道は江戸時代には「塩浜街道」と名付けられ、鯨ヶ丘の中程に位置する東通りと西通りを結ぶ横町は「塩横町」と呼ばれました。ここで集荷された塩が領内各地へ捌かれていったものと考えられます。
さらに水戸~棚倉間(福島県棚倉町)を結ぶ棚倉街道の発達を受け、周辺からの物資の集散地として経済が発展しました。在郷町として城下町や他領に出荷する問屋中心の商業活動が行われ、通りに面して間口が狭く奥行の長い敷地に町家が多く築かれました。
明治時代になると町制施行により官庁街が設置され、また、さらなる経済の発展に伴い多くの銀行も設立され、近隣地域の中心地として機能するようになりました。
鯨ヶ丘には現在でも往時の構えを残す町家や、豊かな資金力を反映した土蔵造りの建物が残っています。
国登録文化財(平成26年10月7日登録)
内堀町の街道に面して屋敷を構える商家で、駿河屋という屋号を号します。オモヤにある仏壇引出裏側に「持仏堂文化七年庚午秋九月廿日造之 指物勇吉作」の墨書があり、文化7年(1810)の建築であることが分かります。文化5年には火災があったと伝えられているので、この火災の後に再建されたものと考えられます。当家の先祖は、はじめ佐竹氏家臣でしたがその後馬場村に帰農したとされ、過去帳(戒名や没年月日など故人についてかかれたもの)には、享保15年(1730)に当地に秤屋として出店したとあります。
ミセは街道に東面して構えられ、そこに直角にオモヤがつながり、座敷のある棟が直角につながる複雑なつくりとなっています。ミセは土蔵造り厨子2階建です。1階は総土間で、書店が営まれており、内部は近代以降に改装され、洋風アーチの船底天井が繰り返す意匠が見られます。2階は倉庫として使用されており、格子窓があります。また、内側に土戸と障子が建て込まれており、近隣で火災があった際には土戸を閉め、ミセに燃え移らないよう工夫されています。敷地内には他にドゾウ※とハナレがあります。
※土蔵も国登録文化財(平成26年10月7日登録)ですが、集中曝涼での公開はしておりません。
国登録文化財(平成26年10月7日登録)
この地で酒造業を営んでいた稲田家の袖蔵です。棟木の墨書から明治43年に建てられたことが分かります。昭和期には西側を増築し、飲食店として使用していましたが、火災により増築部分は焼失してしまいました(外壁に煙の跡が見られます)。
平成21年度からは現在の所有者によって整備され、「オープンギャラリー倉」として貸出を行っており、これまでに絵画の個展やイベントなどに活用されています。
クラは街道に西面して構えられます。桁行3間、梁間2間、妻入りの煉瓦造り3階建てです。ペディメント(正面上部に設けられた三角形の部分)を飾り、コーニス(帯状に取り巻く装飾)を廻らせており、黒漆喰塗りの観音開きの扉など、高い左官技術が見られます。往時にはクラの南側に土蔵2階建ての商家があり、その東側や北西に隣接するタクシー会社までを含む広大な敷地を有していました。現在駐車場となっている場所には3つの井戸跡や門柱、煉瓦塀が残っており、豪商「稲田屋」の姿を想像することができます。
平成21年から23年にかけては改修が行われました。所有者による改修は、西口開口を復元するとともに、内部の清掃、トイレなどの水回りを整備しました。東日本大震災(平成23年)では屋根の棟が損傷したほか煉瓦にも亀裂が入りましたが、所有者がいち早く復旧を行い、屋根は瓦葺きからガルバリウム銅板葺きへ変更するとともに、煉瓦の亀裂はエポキシ系の樹脂を充填して補修されました。
国登録文化財(令和3年2月26日登録)
西二町の街道に面して屋敷を構える商家で、現在は醤油醸造及び販売を行っています。宝暦年間(1751-1763)に創業し、江戸時代を通して酒造業が中心でしたが、明治以降は醤油醸造業を中心に商売しています。
安政6年(1859)の火災によりミセは焼失しましたが (現在の建物は焼失後に仮普請として建てられたもの)、土蔵造りのオモヤは火災を免れました。当家の先祖は東京の立川周辺を治める豪族でしたが、文禄4年(1595)太田に移住し佐竹氏に仕えたといいます。
街道に東面してミセとガクシュウジュクを構え、ミセの背後にオモヤが繋がっています。敷地の奥にはシングラ、イタグラが並び、さらに奥にハナレがあります。敷地内には他にフナグラ、ムロ、シコミグラ、ビンヅメバなどの工場が立地します。ミセは木造瓦葺き、切妻造り平入りの厨子2階建て(店舗の真上にあたる部屋の天井が低いことが特徴の建築様式)です。北側壁面はモルタルで塗り固められて、防火対策が採られています。1階は店舗で、客が入る部分は土間、それ以外の部分は板敷です。2階は物置と居室の2部屋に分かれ、2か所に設けられた階段を使ってあがります。オモヤはミセの背後につながる木造瓦葺き切妻造り平入りの2階建てで、棟の方向は街道に対して直角です。
元治元年(1864)の「天狗諸生の乱」の際の刀傷があることから、それ以前に建てられたものであると考えられます。茶の間や座敷の長押には洋釘ではなく和釘(角釘)が使われており、安政6年の火災以前に建てられたという伝承を裏付けています。
PDFファイルをご覧いただくにはAdobe Acrobat Readerが必要です。
お持ちでない方は、左のボタンをクリックしてAdobe Acrobat Readerをダウンロード(無料)してください。
〒313-0055 常陸太田市西二町2200(旧法務局)
電話番号:0294-72-3201 ファックス番号:0294-72-3310
メールでのお問い合わせはこちらこのページに対するご意見やご感想をお聞かせください。なお、寄せられたご意見などへ、個別の回答は行いません。
住所・電話番号など、個人情報を含む内容は記入しないでください。
それ以外のご意見・ご提案などはこちらからお願いします。