市指定文化財(平成29年5月25日指定)
小独立丘陵頂部(標高49m)の自然地形を巧みに利用し、当時の交通や物流の大動脈である久慈川とその支流からの視線を強く意識して、丘陵頂部の西縁に築造されています。
墳丘規模については、前方部の短小な前方後円墳で、主軸方向は北西~南東です。主体部は不明ですが、墳丘の遺存状況から未盗掘とみられます。測量・清掃時に多量の底部穿孔壺片(壺形埴輪)が採集されており、壺形埴輪の樹立が想定されます。
周溝は、後円部の東側を中心に幅約11m、深さ約1mで遺存しますが、後円部の南側および東くびれ部付近では、自然消滅しています。したがって前方部先端付近から西側面および後円部南側にかけて周溝は巡らず、地山を削り出すことで墳形を画しています。墳丘の西側は地山を削り出し、東側は周溝状に地山を掘削して墳形を整えたとみられます。
築造時期については、採集遺物も少なく、正確な築造時期を絞り込めませんが、墳丘の規模や立地など他の古墳との共通性や類型から推測すると、古墳時代前期後葉頃とみられます。
平成24年に発見されたばかりのこの古墳は、これまでの測量や発掘調査に、多くの地元の方やボランティアが携わりました。たくさんの思いがつまった古墳を、ご紹介します!
撮影:常陸太田ビデオ研究会 / 協力:茨城大学人文社会科学部歴史・考古学メジャー
県指定文化財(平成18年11月16日指定)
久慈川左岸の支流、山田川と浅川の2つの小河川に挟まれた海抜13m前後の沖積地上、周囲を水田に囲まれた場所に位置している。後円部の頂上には星宮神社が祀られていることからこの名がつきました。江戸時代に鴨志田家が水戸藩から拝領したことから、拝領山といわれ、諏訪山古墳とも呼ばれています。
全長100mの前方後円墳で、後円部に比べ前方部が未発達なことや、採集された底部穿孔有段口縁壺の特徴から古墳時代前期前半に造られたものと考えられており、後円部墳頂及び裾部から吉備(岡山県)地方でみられる特殊器台形埴輪の系譜を引く器台形円筒埴輪片なども採集されています。
約650m南東に離れた全長151mの前方後円墳の梵天山古墳とほぼ同時期の古墳と考えられ、その関係が注目されています。
市内で一番古く、江戸時代初めには水戸藩の郷士に任じられた鴨志田家が所領として拝領した古墳を、ご紹介します!
撮影:常陸太田ビデオ研究会 / 協力:茨城大学人文社会科学部歴史・考古学メジャー
県指定文化財(昭和28年7月9指定)
梵天山古墳群は、久慈川と山田川に挟まれた標高20~25m前後の台地上にあり、前方後円墳2基、円墳8基と、「島の百穴」と呼ばれる横穴墓群からなります。
主墳の梵天山古墳は、前方部が後円部に比べ低く未発達であることから、古墳時代前期に造られたものと考えられ、その規模も全長151mと、古墳時代前期中葉までのうちでは東国最大です。
また、3号墳の高山塚古墳(古墳時代中期)は、直径100mの円墳に、直径30mの円墳がついたようになっています。北東に約650m離れた小島町には、全長100mの前方後円墳である星神社古墳(古墳時代前期)があり、1kmの範囲内に、100m級の古墳が3基も存在する稀有な地域です。これらの古墳は、久慈川下流域を支配した豪族達の墓であると考えられています。
茨城県内で2番目に大きいだけじゃなく、ヤマト王権を中心とした国家が成立しだした頃の、当地方の動きを知る鍵となる注目の前方後円墳古墳を、ご紹介します!
撮影:常陸太田ビデオ研究会 / 協力:茨城大学人文社会科学部歴史・考古学メジャー
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