延宝5年(1677)、水戸藩2代藩主徳川光圀が生母(谷 久子)の菩提を弔うために建立した日蓮宗の寺院です。
久子の法号である「久昌院」が、久昌寺の名の由来です。当初は現在の稲木町にありましたが、版籍奉還により取り潰しとなり、明治3年(1870)に現在の場所にあった久昌寺の末寺・蓮華寺と併合することで再建されました。
県指定文化財(昭和56年12月24日指定)
久昌寺の摩訶衍庵(まかえんあん)に住した日乗が、元禄4年(1691)1月1日から元禄16年(1703)2月15日までのほとんど毎日を記録した日記で、美濃判2つ折り全13冊1,041枚からなっています。
日乗は字を慈性、皆如院と号し、慶安元年(1648)11月18日に京都に生まれ、京都深草の元政上人に学び、延宝5年に久昌寺に招かれました。西山荘に隠居していた光圀と交流し、西山荘をしばしば訪ね、領内の巡検に同行するなどしています。この日記から光圀の西山荘隠居後の生活の様子を知ることができるほか、元禄時代の世相風俗や生活の実態、気象などといった豊富な記録に満ち溢れた貴重な資料ともいえます。
市指定文化財(昭和42年8月31日指定)
徳川光圀(義公)の面で、現在3面が残されています。「御年二十歳」は縦18.2センチメートル・横11.7センチメートルで太田九蔵作、「御年三十歳」は縦18.5センチメートル・横13.5センチメートルで前田介十郎作、「御年五十歳」は縦22.0センチメートル・横14.0センチメートルで太田九蔵作です。作られた時期は分かっていませんが、作者の太田九蔵と前田介十郎はともに光圀の近臣で、幕末に立原杏所の描いた絵図には、太田九蔵は西山荘の近くに住んでいたことが記されています。
明の時代の万暦40年(慶長17年・1612)の作で、1,980冊が現存し、桐の経櫃48個に納められています。元禄年間に徳川光圀が久昌寺に納めており、「久昌寺経蔵開山檀那源光圀置」の朱印があります。経櫃には佐々宗淳の筆による題目等が記されています。
間口8間、奥行7間の当時の寺院としては珍しい鉄筋コンクリート造で、太田出身で函館に渡って商売で大成功をおさめた梅津福次郎の65,000円の寄付により建てられました。久昌寺は梅津家の菩提寺であり、日蓮宗を厚く信仰した福次郎は、宗祖650年忌大法会と祖先の供養、そして自らの渡道50周年を記念して、本堂・書院・庫裏の新築のために寄付を決めています。本堂は昭和4年(1929)11月20日に起工し、翌年に竣工、6年11月22・23日に入仏供養が行われました。施工は東京の神田明神や上野の東照宮、函館の本願寺別院などを手掛けた木田組(木田安造)で、設計は青地安太郎が担当しています。本堂中央の天蓋と瓔珞一対は梅津福次郎が本堂の落成にあわせて寄進したもので、平成3年(1991)に福次郎没後50周年を機に子孫の手で改修されました。本堂裏には梅津家の墓所があり、本堂前には建築を記念した「逾久逾昌」と題した頌徳碑が残されています。
本堂裏の高台にある義公廟は、徳川光圀(義公)の遺徳を顕彰するために、当時の太田町有志によって建設が計画され、昭和16年(1941)に建立されました。廟内には光圀が亡き母の供養のために板絵30枚に書写した法華経10巻と母の毛髪を納めた宝塔が安置されています。
水戸藩3代藩主徳川綱條が制作を命じた陶像で、支藩(高松藩・守山藩・府中藩・宍戸藩)に分け与えたとされ、久昌寺には2体残されています。
像の底面には、綱條がこの像を作らせた経過とその思いが刻まれています。
「摩訶衍庵」…子龍(水戸藩2代藩主徳川光圀)筆
「三昧講堂」…景山(水戸藩9代藩主徳川斉昭)筆
「経王寶殿」…水戸藩3代藩主徳川綱條筆(本殿入口上部)
撮影:常陸太田ビデオ研究会 / 協力:茨城大学人文社会科学部歴史・考古学メジャー
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