寿松院は、無量山(むりょうざん)寿松院と称する曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦牟尼仏です。鎌倉建長寺の末寺で、もとは太田山寿昌寺と称する臨済宗の寺院でした。
太田山寿昌寺は、錦江大和尚が開山、太田城主(佐竹氏7代当主)の佐竹義胤(よしたね)が開基となって、建治元年(1275)、太田村に創建されました。天文2年(1533)には、佐竹氏10代当主の義篤がこの地に移し、同11年、耕山寺(市内瑞龍町)の華翁聞宅大和尚が中興開山となり、曹洞宗の寺院となっています。
水戸藩2代藩主の徳川光圀は、西山荘隠棲後も何度も寿昌寺を訪れ、様々な援助を行いました。境内には柏としだれ桜を植え、柏は冬になっても葉を落とさず、春になって新しい葉が出てきてから落ちるので、誰もそのようにありたいと願い、また、しだれ桜のように誰に対しても腰を低くしなければならないことを説いたといいます。山内にお手植えされた「しだれ桜」は今でも花を咲かせています。
また、本堂の前にある、立派な松の木を非常に愛したことから、寿松院に改称したと伝わります。
像高67.7センチメートル、寄木造で室町時代末期の作と考えられる、寿松院の本尊です。肉身部は金泥塗で、衣部には彩色が見られ、目は玉眼です。台座や光背は、江戸時代に製作された後補のものと思われます。
大般若経は三蔵法師玄奘が最晩年に翻訳した、仏典の中でも最大規模を誇る経典で、全600 巻、500万字に及びます。仏教の基礎的な教えが書かれている経典で、大乗仏教の空思想に基づいた般若思想を記録したものです。寿松院に伝わる大般若経は、「中野版」とも呼ばれる、中野是心が寛文10年(1670)に印刻した刊本経の一つで、全600巻を所蔵しています。
本図は縦119.9センチメートル、横59.8センチメートル、絹本著色で江戸時代中期から後期の作と考えられます。十六善神とは大般若経を守る護法善神のことで、四天王と十二神将からなります。図の中央には釈迦牟尼仏、向かって右側に智慧をあらわす文殊菩薩、左側に誓願をあらわす普賢菩薩が描かれます。左右に8人ずつ描かれる、剣や槍、斧などを持っているのが十六善神です。
本図は、縦53.5センチメートル、横101.4センチメートル、絹本墨画淡彩で、江戸時代中期から後期の作と考えられます。徳川光圀が寄進したもので、絵図の背面には文政5年2月に補修したことを記した墨書銘があります。この地域では日照りが続くと、村の青年たちが田渡の堰に集まり、本図に水をかけ利趣文を読経し、降雨を祈ったと伝わります。絹地全体に浮上がりが見られるのは、水をかけていた為と思われます。
本図は、縦158.7センチメートル、横158.7センチメートル、絹本著色で、江戸時代中期から後期の作と考えられます。涅槃図とは、お釈迦様が入滅する模様を記した「涅槃経」に基づき描かれたものです。釈迦像は金泥で描彩され、また、図の背面には「文政五壬午年二月涅槃像」や、修補に関わった世話人の連名、「耕山寺兼帯住」の墨書銘が見られます。
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